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消えた天才 『サッカーの超名門校で歴代最高と呼ばれた天才ストライカー』

【森崎 嘉之:基本情報】
ラテン文字 MORISAKI Yoshiyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1976年4月20日(44歳)
出身地 千葉県
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW
ユース
1992-1994 船橋市立船橋高校

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年 クラブ 出場 (得点)
1995-1996 ジェフユナイテッド市原 0 (0)
1997 水戸ホーリーホック
1997-1999 横河電機サッカー部
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 1995年1月、第73回高校サッカー選手権の決勝で、エースとして市立船橋の初優勝に貢献。それまで決勝不敗神話を誇っていた帝京を5-0と一蹴し、圧巻のハットトリックを決めたのがFW森崎嘉之だった。

 8ゴールで大会得点王を手にした森崎は同年、市船の同期である茶野隆行、鈴木和裕とそろってJリーグのジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団したが、その後、彼の名前が表舞台に出ることはなかった。

 高校サッカー選手権で強烈なインパクトを残しながらも、なぜ森崎はプロの世界から早々に消えてしまったのか。

てっぺんと底辺を経験したからこそ――森崎嘉之「いまは選手のときより楽しい」(アプリ限定)
 帝京か、市船か。高校入学時にどちらに進むか迷った2校が、高校サッカーの最後の試合になるとは森崎自身、想像だにしなかったことだろう。それにしても73回大会の市船は強かった。

 1回戦で熊本農に4-0と快勝すると、続く2回戦も新潟工に6-1と大勝。3回戦で東福岡を2-0で下すと、準々決勝でも宮崎工に3-0と勝利。そして、準決勝でGK楢崎正剛(元日本代表、名古屋グランパスなど)を擁した奈良育英に3-0と快勝すると、決勝では名門・帝京から5点を奪うなど、まったく寄せつけなかった。

「大会前は優勝できるとは思ってなかったですし、運が良かったというか、たまたまだと思うんです。県大会の決勝もPKで勝って、なんとか全国(選手権)に行ったという感じでしたから。もちろん、当時はいまと違い都道府県の格差が大きかったので、熊本や新潟のチームに負ける気はしなかったですし、準決勝の奈良育英戦もたぶんシュート1本くらいしか打たれなかったと思います。

 ただ、僕らの代はインターハイも全日本ユース選手権も優勝していた清水商業(安永聡太郎=元横浜F・マリノスなど、佐藤由紀彦=元FC東京など)が断トツの優勝候補と言われていて、順当に行けば準決勝で当たるはずだったのに、初戦(2回戦)で(奈良育英に)負けてくれた。たぶん、当たっていたら負けていたと思いますし、ホントにうまくいきましたよね(苦笑)」

 主力のひとりだった茶野はケガで選手権を棒に振ったが、主将の鈴木のほか、1学年下にも、砂川誠(元コンサドーレ札幌など)、式田高義(元市原など)、城定信次(元浦和レッズ)などタレントはそろっていた。大会前の練習試合でゴールを連発し1年生ながらメンバー入りしていた北嶋秀朗(元柏レイソルなど)も、大会を通じて6ゴールを挙げる活躍を見せた。ただ、決勝でのハットトリックを含め、鮮烈な印象を放ったのが森崎だった。

 決勝で決めた3点のうち2点は得意のヘッド。右CKにニアで合わせた1点目、右からの山なりのクロスに滞空時間の長いジャンプから豪快に決めた2点目は、ともに高校レベルを超えたものだった。

「1点目は練習通りで、ボールの軌道とタイミングでポストに当たらない限りは入るなという感覚でした。2点目はプレーしていたときは分からなかったですが、あとで映像を見たらスゴかった(笑)。いま振り返ると、あのときは“ゾーン”に入っていたんでしょうね。センタリングが上がったときから、すべてがスローモーションで見えたというか、飛んでからヘディングしてボールがゴールに入るまで、頭のどこにボールが当たったとかGKの位置まで、全部見えていましたから。そこまでヘディングを練習した記憶はないですが、頭で決めた点は多かったですし、得意だったんでしょうね」

Jリーグでの出場はカップ戦…たった4分間
ナビスコカップ1試合、それもたった4分の出場。森崎のプロキャリアは寂しい数字とともに、幕を閉じた

 しかし、高校時代は無敵だったヘディングもプロでは通用しなかった。高校卒業後は同期の茶野、鈴木とともにジェフ市原に進むも、2年間で出場はナビスコカップの1試合、たった4分間だった。

 ポジションの差こそあれ、1年目から茶野が26試合、鈴木が33試合と出場機会を得ていたことを考えれば、あまりにも寂しい数字である。

「試合に帯同したのも、10試合あるかないかくらいだったと思います。『ケガでもしたの?』ってよく聞かれるんですが、大きなケガは一回もなかった。簡単に言えば、メンタルが弱ったんです。高校時代はヘディングで負ける気はしなかったですが、プロに入ってスピードも高さも体の強さも違い、その差に戸惑った部分はありました。

 そこで誰かに相談するなりすれば良かったのですが、僕は誰かに相談するというよりもひとりで解決しようとうするタイプだったので。あるとき練習で角度のないところからシュートを決めて喜んでいたら、監督から『そこはパスだろ』って言われたり。感情表現もうまくなかったので、一生懸命やっているように見えなかったのかもしれませんが、やる気があるのに『やる気あるの?』って言われたら、やる気うせません?(苦笑)」

「できる自信あったが…そこまでが大変」
市立船橋での華々しい活躍が、皮肉にもその後の森崎を苦しめた

 もちろん、出場機会がなかった理由は、メンタルだけが原因ではない。

「サッカー選手とはいえ、20歳前後の若者ですからね。まあ、お酒や女性関係を含め、いろいろありました(笑)。夜に食事に行けばJリーガーということでチヤホヤされ、ご馳走してくれる方もたくさんいたので。当時は寮生活だったのですが、寮には戻らずに直接、練習に行くこともありましたから。クラブはそういう姿勢を含めて全部知っていたんだと思います(苦笑)。練習終わりに風呂場で監督と一緒になっても逃げるように出たりして。積極的に話をして監督に一回でも『僕を使ってください』とか言えば良かったんでしょうけどね」

 ジェフ市原の1学年先輩には同じく高校サッカーのスター選手だった城彰二がいた。同じポジションのライバルではあったが、一緒に過ごす時間も多かった。だが、城が日本代表に上り詰めたのとは対照的に、森崎に出番は回ってこなかった。

「いまとなれば、起用する方は冒険できないのも分かります。ただ、出られないヤツの偏見でしかないんですが、当時の監督は好きな選手ばかりを使っていて、なんのためにサッカーをやっているんだろうって思ってしまった。同じように使ってもらえたら、できるという自信はありましたが、そこまでが大変。プロとはいえ実力だけではダメで、一般の社会と一緒で上手な人間関係が築けなければ、チャンスすらもらえないですから。そんな状況で気持ちはマイナス、マイナスの方に行ってしまい、試合を見ても正直負ければいいのにって思ってしまうなど悪循環でしたよね」

 高校選手権に憧れてサッカーに熱中し、夢だった全国制覇まで成し遂げたが、のちにそれが仇となったこともあった。

 高校選手権での森崎の活躍を知るサポーターやファンにとっては、プロですぐに活躍できて当然という考えがあったのだろう。「そういう目がいちばんキツかった」と笑うが、サテライトリーグ(控えメンバーによるリーグ戦)で試合に出れば、観客席はまばらにもかかわらず、「なに天狗になってんだ!」「もっと走れ!」などと容赦ないヤジが飛んできた。

 結局、2年でジェフ市原から戦力外通告を受けた。まだ20歳で、ほかのJクラブでプレーするチャンスもうかがったが、そううまく事は運ばなかった。

「Jリーグのクラブ間でも、僕の行動が良くないという話が大げさに流されたようで。実際に大人って怖いなと思いましたね。ジェフでやっていた2年間を振り返っても、一緒にやっていた選手を含めてズルい世界だなっていうのは強く残っています」

「ホントにクズ」すべて自分が招いたこと

環境が変わっても、森崎がサッカーに真面目に取り組むことはなかった。そして引退後、サッカーから距離を置いた

 その後は旧JFLの水戸ホーリーホックで半年、関東リーグの横河電機サッカー部(現東京武蔵野シティFC)で2シーズンプレーしたものの99年に引退した。

「当時はいまみたいにJ2とかJ3はなかったですから。セレクションに行っても、JリーグとJFLの環境は大きく違っていて『えっ! ここでやるの?』って感じで、そう思ったのは僕だけじゃないはずですよ。水戸も横河電機もプロじゃないので、働いている選手がほとんど。そこでせっかく仕事まで用意してもらっても、3日しか続かなかった。練習は午後からだし、朝10時からパチンコ屋に並んでましたから、ホントにクズでした(笑)」

 もう少し真面目に取り組んでいたら、違ったサッカー人生を送れたのではないか、森崎にそんな思いがないわけではない。ただ、すべては自分の行いが招いたこと。どこに行っても結果は同じだった、とも話した。

「活躍できないからふて腐れたわけじゃなく、自分が思っていたような社会じゃなかったってことですかね。心が折れたとかそういうことよりも、つまらないと感じてしまった。前から守備しろって言われても、そんなの分かってるんですが、それができなかった。僕だけが特別に不真面目だったとは思わないですが、たぶん、もっと上の領域に行く人は、試合に出て点を取って周りを黙らせちゃうんでしょうね。最後は、横河をJFLに上げましたが、上げたあとの監督がめちゃくちゃ走らせる監督で、もう気持ちがついて行かずにやめました(笑)」

 その後は約10年間、サッカーとは距離を置いていた森崎。だが、いまは自身でサッカースクールを立ち上げただけでなく、シニアチームでボールも蹴っているというのである。

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